カンバセイション・ピース
おそらく去年の話題作のひとつ。『カンバセイション・ピース』
bk1の書評をみるといろいろですが、私はおもしろく読み終わった。
正直1/3までは、うーんすすまないという感じだったのですが、半分すぎてからは、じわりじわりと会話の楽しみが味わえるように。カンバセイション(会話)の小説。ひたすら、誰かがしゃべっていて、小説家である主人公の独白とともに、古い家に住んでいる人々がおしゃべりしている。日常会話のあまりにも何気なく、適当な会話がえんえんとつらなる。そして、時々小説家の独白になるほどとうなずいたり。しかし、たらたらしている会話の中に、うん、これぞ人生よねなんて若造の私が思ってしまったり。人はおもしろい。
「ふるさと創世資金の一億円を、全額宝クジに注ぎ込んだ町があったよな」 と私は言った。 「あったねえ」
思わず、うそとつぶやいてしまう。
「中学のときにちっちゃくて優しい理科の先生がいたの。女の先生だったんだけど、二年前の冬に急に死んじゃって、あたしたちの担任じゃなかったんだけど、あたしたちみたいな勉強しない生徒の話をよく聞いてくれたからお葬式にも行ったんだけど、二週間くらいして友達が電話乗ったら、『あ、先生だ』って思ったんだって。 でもその人、顔なんか全然似てないし、歳もあたしたちと同じくらいなんだって。で、『どうして、先生だって思ったんだろう』って思って、その人のこと見てたんだけどやっぱりすごく感じが似てるんだって。 電車の中の人たちをおもしろそうに見ている感じが先生にそっくりで、友達は、『先生がこの人の目を借りて、自分が生きた世界を見に戻ってきたんだ』って思ったんだって――」
これは小説家とその娘の会話。
ふんふんと耳をそばだてるように読む。
子どもが暗やみをこわがるということを思いふけっている時は
聖書が言うように言葉は光で、その光が闇を照らすのだが、言葉がまだ自分にとってよそよそしいものとしてある子どもには、闇は光が届かないだけのネガティヴな場所なのではなくて、自分の知らない時間が流れ出てきているような場所で、そういう知らないことがあることがいまこの世界にりうことを保証する光のない高原のような昨日を果たしてくれているというような……。
というとりとめないことが書かれていたり。
410頁読了後、次はいつも最後まで読めていなかったナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』を読んでみようと思った。
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