なぜ古典を読むのか
イタロ・カルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』
須賀敦子さんの本は『コルシア書店の仲間たち』から読み始めた。それがはじめの1冊。それからは、出るたびに本だなに増えていった。訳したものも読みたくなり、それで手にした1冊。
最近、古典をおもしろく読んでいる。子どもの頃読んだ、名作全集の記憶などもうほとんどない。だが、おもしろかったという感覚は身体の中に確実に残っている。夏目漱石の『坊っちゃん』も、こんなにおもしろかったのかと。キプリングの『ジャングル・ブック』も次に読んでねとばかりに、目の高さに置いてある。
クリスマスに読んだ、ディケンズの『クリスマス・キャロル』は、文句なしに楽しんだ。幽霊達が見せる、現在、過去、未来。ディケンズの書く人間はあたたかい。
さて、カルヴィーノ。
この1冊は、イタリアのエイナウディ出版社でだしている文学叢書の「まえがき」として書かれたものがまとめられたもの。それ以外の文章も若干入っている。最初に「なぜ古典を読むのか」と題し、古典の定義を14ほどだしている。印象に残った定義はこれ。
古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさになる本だ。しかし、これをよりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資産だ。
定義の次は、個々の作品についてふれている。ただいま読んでいるところ。気になっているのは、やはりディケンズの『我らが共通の友』。
須賀敦子さんのあとがきも読ませる。
ずっとむかしに読んだ小説や詩を、当時は相応もつかなかったあたらしい年齢の重みにたすけられて、あたらしいテクストとして読みなおすこともできた。
比べる器でも、また経験を積んだ年齢にはいたっていないのだが、あたらしい年齢の重みを実感するこのごろ。
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