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明日は終日、保護者会行事で留守になるので、週末のごはんは今日まで。朝はつれあいに昨晩からパンを仕込んでもらい、ふっくら白パンにピーナッツクリームやチョコレートクリームをつけて食べる。私はりんごジャム。あとは牛乳ごくごく。お昼は朝も遅かったので、冷や麦。庭の葱と紫蘇を薬味に。梅だれなども。昨夜は、混ぜごはんにコメントをいただいたアドバイスをもとに、しそわかめちりめんをごはんに混ぜたあとは、きゅうりの千切りと、ごまとスクランブルエッグ。新しょうがと紫蘇も。錦糸卵にしなくてもと教えていただきたしかにスクランブルエッグも美味。ひとつ賢くなった。今日の夜は、はじめてキッシュをつくった。アスパラガスとツナを具にパイシートにいれて、オーブンで焼く。子どもたちは、これはうまそうだと大喜び。スープは大豆ポタージュ。子どもが途中まで玉ねぎを炒めるのを手伝ってくれた。もうちょっとクリーミィにしなくては。サラダはトマトとモッツァレチーズで。保護者会行事は一日拘束なので、ちょっとブルー。夜も打ち上げ。これはさすがに私一人では無理なので家族参加。打ち上げと思わず外食だと思うことにする。l
今年は、ピーター・パン誕生100年。だからというわけではないが、『ピーター・パンとウェンディ』を、石井桃子さんの訳で読んでみた。ダイジェストもたくさんでているし、おそらく私が最初に読んだのは別の人の訳だと思うが、あぁ、こんなに滋味深い話だったんだとしみじみした。ウェンディの母性の強さにはすこし引いてしまったが、フック船長やまわりにいる手下たちが、海の男としてたいそう魅力的に描かれている。冒頭でウェンディのお父さん、お母さんの描写もすてきだ。ここではお母さんの描写をひとつ引用――。
お母さんのかわいい、人をからくような唇には、いつもキスが一つ、うかんでいましたが、ウェンディはとうとう、そのキスをもらうことができませんでした。あのとおりはっきり唇の右のはしに見えたんですのに。さて、このキスはだれのものに……。
定期的に送られてくる本関連のメルマガのほかに、楽しみなのは本読みのサイトめぐりだ。リンクに新しく追記させていただいたのは、bk1で精力的にレビューを書かれている中村びわさんのブログ。おもしろそうだなと思った本に、中村さんのレビューが掲載されていることが多く、サイトをお持ちではないのかしらと時々さがしていた。ブログをみつけRSSリーダーで読んでいたのだが、やはりリンクさせてほしいという気持ちがふつふつと。リンクフリーですよと温かいお返事をいただき感動。読みごたえのあるブログです。
3冊つづけて子どもと読んだ。『アフガニスタン勇気と笑顔』、『ザビット一家、家を建てる』、『ツバル』。上の子が、おもしろいねぇと声にだして写真をくいいるように見ていた。私がおもしろかったのは『ツバル』。海抜1メートルの島国、その自然と暮らしというサブタイトルが内容をよく語っている。美しい海に囲まれた、それ故の苛酷さ。深刻な塩害を写真のもつ一番の力で訴えている。環境問題を訴えるという内容だけが声高になっていると引いてしまうが、この本はぎりぎり回避している。『アフガニスタン~』は、日本の子どもの感想と思われるものが写真についているのだが、どの言葉も少しずつ写真とかみあっていないように感じた。『ザビット一家、~』はコソボの家族写真。33人で暮らしていた生活から、ひとつの家族が独立して家を建てていく様子。ひとつの家族とはいえ、子どもは生まれたばかりの赤ちゃんをいれて8人! どの写真も子どもの笑顔がいい。「家族がいれば生きていける」という母親の言葉そのままの写真がたくさんだ。
土曜日はずっと出たり入ったり、つれあいは一日中運転手さん。おつかれさま。お昼は冷麺。スイカがあったので具のひとつに、あとぶどうも。ほかの具はふつうに錦糸卵やきゅうりやら。冷麺はフルーツがよくあうなぁ。冷たくってつるつるしこしこ、美味。上の子どもは自遊広場で一日遊んでくる日なので4人でつるつる食べた。午後は私が出かける。大学で行われている講座の2回め。先週より今週の方がおもしろかった。Scavenger Huntというので、 Lucille Cliftonという詩人を知った。"Homage to my hips"はClifton自身の朗読が聞ける。書き手による詩の朗読はいい。夕食は、混ぜ寿司と、じゃがいものおみそ汁。玉ねぎのバルサミコ酢炒め。豆腐に玉ねぎのスライスをかけて、ナンプラー、レモン汁をかけたもの。日曜日は午前中、私と上の子の2人で小学校へ。帰宅後、つれあいがおいしい味噌ラーメンをつくってくれた。暑い時に熱いものは体に気持ちいい。午後は畑の水やりへ。子どもたちは田んぼの横を流れる水で遊んでぬれていた。チョウチョは怖いがカモは大丈夫と追いかけていたのは末っ子。夕食は肉団子のトマト甘酢あんかけ、だいこんと水菜のおみそ汁。きゅうりとわかめの酢のもの。庭のふきをとってきて、醤油と砂糖、ゴマ油でいためる。とりたてのふきは、生命力のある味がした。ぷふぁと口に広がるほろ苦さが美味。なぜかつれあいが『雪の夜に語りつぐ』を読み始めた。昔話はおもしろいものね。この本を買ったかどうか探していて、みつかったので近くに置いていたのを見つけたらしい。
『ファミリー・レストラン』読了。公子が7歳くらいまでの時がいい。和美の娘が公子。和美はこの物語の冒頭で3回目の結婚をしつつある。公子の遺伝子上の父親は一番最初の結婚の時なのだが、赤ちゃんの時に離婚しているので、2回目の結婚の時の相手を父親と思っている。それで特別な感情が生まれるわけでもなく。和美は表面的にはさっぱりしている女性にみえるが、内面はどろりどろりといろいろ考える女性、まぁ、それもあたりまえではある。3回目の結婚を決めたのは妊娠したからなのだが、残念ながら途中で命が消えてしまう。少したち、桃井さん(相手)の妹が癌で亡くなり、シングルマザーとして育てていた一人息子を和美たちは養子としてひきとる。それぞれ家族であるために気持ちを近づけながら、いわゆる家族らしい家族になっていく。1冊でかなりの時間を経過していて、後半は少しさみしい。前半は子どものために書かれていないけれど、子どもについてまっすぐ書かれていてそこがとてもよかった。ひとつの感情にしばられることなく、悩みはあれど、そこらあたりが書き込みすぎていない。ふむ。
厳密には食べることと飲むことは違うけれど、食ということでこのカテゴリに。今日は梅酒を仕込んだ。この家に住んで約6年、毎年たんまりと仕込んでいたのは、無農薬の梅を安く入手できていたからなのだが、そこが販売をやめてしまい、昨年はとうとうつくらなかった。でもそれではやはり寂しいので、今年は少々高いけれど無農薬の梅を2キロだけ求め、地元の日本酒で2升つけた。日本酒でつけると焼酎でつけるより早くできあがる。梅酒など果実酒につけるのにむいているお酒で、そのまま飲んでもあまりおいしいとは感じない。しかし、梅酒にするとそれは芳香な味にしあがるのだ。来客のおもてなしにも喜ばれる。今年の楽しみが増えた。
秋鮭ちりめんじゃこというものを購入。あったかいごはんに、秋鮭ちりめんじゃこをぱらぱらかけ、その上に千切りのしょうがと青ジソとゴマ。一番上は薄焼き卵を千切りにしたものをちらす。味見して必要があれば塩を少々。美味、美味。混ぜごはんって簡単でこんなにおいしいんだ。庭の紫蘇が今年もこぼれ種から成長して食べ頃になっている。今日は、今年お初の紫蘇をつかった。赤紫蘇もでてきてる。なににつかおうかな♪
久しぶりにビデオで映画をみた。「カオス・シチリア物語」というタヴィーノ兄弟の作品。3時間と少し、5つのオムニバス形式でゆっくりとすすむ。子どもたちもいるので、なかなか3時間集中してというのはむずかしかったが、時々、2階から子どもたちも降りてきて、ちらちら見ていた。ゆっくりと流れる時間の中で幻想的であったり、現実的であったり、寓話的であったりとおもしろくみた。好きなのは、わかりやすい「つぼ」。つれあいは「つぼ」以外と言っていた。
『妖怪アパートの幽雅な日常(1)』読了。わかりやすくさらりと楽しめる本。ただこういうシチュエーションにすることで構築される物語はほんの少し冷めてしまう。つきぬけている所が少し足りないように思えて。
この週末は肌寒く外でごはんが食べられなかった。ストーブつけたかったくらい。雨も少しふっていた。でも、畑には水やりに行き、そこでたこやきとところてんを近くのスーパーで買って食べた。今年お初のところてん。
『ダルシマーを弾く少年』は、作者ではなく挿絵を描いているブライアン・セルズニックさんに興味があった1冊。本についている説明によるとダルシマーは台形の木製共鳴箱の上に、金属弦を張り、細長い2本のバチで打奏する楽器。流浪の民・ロマたちの合奏でよく使われ、日本ではツィンバロンともいうとある。柳行李の中にいれられ、親戚に届けられたウィリアムとジュールの兄弟。そして兄弟と一緒にあったのがダルシマー。最初は渡されなかった楽器だが、ふとしたことから、ウィリアムに弾く機会が与えられる。ウィリアムは少しずつ調律してダルシマーを弾きこなしていく。預けられた先の家では優しさをかけられることも少なく、弟は口をきかないで成長している。どうしようもないことが起こり、ウィリアムはジュールを置いてダルシマーと共にいままで住んでいた家を離れた。それから彼はダルシマーを弾くことで生活をしていくようになり……。
セルズニックさんの挿絵は、どこかなつかしく、あたたかい優しさが伝わってくる。モノクロで描かれているが、光などはくっきりと浮かびあがるように描かれ、どの絵も物語にぴったり吸い付いている。静かに物語は進行し、静かに終わる。ラストも自然な美しさがある。よかった。表紙は原書とかなり違う。読了後はどうしてこのような表紙にしたかがわかる、気がする。が、ここまで葉を全面にださなくてもいいかなと思う。
『邂逅の森』を足がしびれたのに気づかないほど、ぐぐっと引き込まれて読了。時代は大正年間。マタギの仕事は貴重な現金収入をもたらせてくれるこの時代、一家の稼ぎ手になるはずだった富治は、地主の娘とのからみから、村を出される。マタギを続けることもかなわず、次の道は鉱夫。父親や兄のかわりに山に入った時はまだ少年という印象をもったのに、世間にもまれどんどん成長していく富治。しがらみから自由に生活することなどできはしない時代に、我慢を重ねて自分の生活をつくっていく。厳しい世界、厳しい世間、読みながらはぁと大きなためいきをつきつつ、人間の濃さにまた別のため息がでる。生きることに対する太い精神力を得るには時間は確かにかかるのだ。夜這いがまかりとおっていた時に、成就した娘とのことをずっとひきずるのも、また人間の業なのだろう。マタギがどのようなものかを伝える描写は、『相克の森』より迫力があるが、私は富治の人間をずっと追う楽しみをこの本で堪能した。連れ添うイクさんがすごくかっこいい。
子どもたちの通う園には小さい人たちが世話をするには、大きすぎるほどの畑がある。その脇に細長い紫や赤っぽいピンクの花が咲いていた。その隣の家からこぼれた種だろうか。そこの庭は細長い花がいちめんに咲いていた。毒がある花かな? なんで? いや毒じゃない、たけのこみたいだから、たけのこの花だよ――という会話を交わしているうちに、私もその花の名を知りたくなった。ピンぼけになってしまった小さい写真を、BlueBoxさんにみてもらうと、すぐさま教えてくださった。「ルピナスだと思いますよ」 きゃあ、これがそうなんだ! とあらためて「ルピナス」で検索していくつかのサムネイルをみてみると、そうです、これです。ありがとうございます、BlueBoxさん。この方のサイトにはいつも美しい花が飾られていて、きっと教えてくださるに違いないと思っていたのだ。うれしい! さて次は子どもたちと、「これはたけのこの花ではありません、ルピナスです!」とおもむろに絵本『ルピナスさん』を読む。子どもたちはお話はもとより、花の絵に夢中。あぁ、これだぁと何度も見入っていた。話の筋そのものは、大人の方がすっと入ってくるのかもしれない。ミス・ランフィアスの背筋がぴんとのびたような人生が描かれ、世の中を美しくするために何かすることという、自分もおじいさんとした約束を、今度は姪っ子という次の時代に伝えていく。子どもたちは美しく描かれた花をみながら、ミス・ランスフィアスの話を聞いていた。この絵本の原題は"Miss Rumphins"ペーパーバックスの方はまた違う表紙)日本でルピナスはノボリフジ(昇り藤)ともよばれているそうで、私も実際に畑のそばに咲いている花をみると、こちらの呼び名の方がしっくりする。
梨木作品はデビュー作から、雑誌「飛ぶ教室」に掲載されたものからほぼすべて読んでいる。どれが好きと聞かれると『からくりからくさ』と答えるだろうか。それはさておき、『家守綺譚』と『村田エフェンディ滞土録』の2冊を読了。『家守綺譚』にでてくる人物―村田氏が土耳古に滞在していた時の物語が後者だ。とはいえ、どちらも独立した作品として堪能できる。『家守綺譚』がでた時すぐ手にとってはいたのだが、少し凝りすぎている表紙がどうもとっつきにくく、そのまま求めないでいた。しかし、時が「読む」タイミングになったのか、今回はすんなり表紙、装幀の美しさを楽しめ、綺譚をおもしろく読んだ。濃厚な空気を感じる家の庭は、梨木氏がずっと物語の中に書いている世界でもある。自身もこうして手入れをしているのだろうか。『村田エフェンディ滞土録』もまた、今まで読んだ梨木作品を感じさせる。最後にでてくる手紙は「飛ぶ教室」で、梨木氏が紹介したベティ・ボーエンから届いた手紙を思い起こさせた。また土耳古での下宿生活の様子は、『春になったら莓をつみに』で書いた自身の下宿体験を投影させているのだろうか。この『春に~』のエッセイは少し生々しすぎてまだ本という形をとるには早いように思ったのだが、それと書きたい時が重なる時、重ならない時がある、、のか。
『アジアの調味料でいつものご飯』、そそられているのは、ベトナム風くるみハンバーグ、高菜のつるつるうどん、ベトナムにゅうめんなど。この本の表紙は食材や調味料が写真でコラージュされていて、子どもがままごと用テーブルにこの本を料理変わりに置いていた。なるほど、こういう使い方も。『語り女たち』、30を過ぎて視力がおちたことをきっかけに文字の物語ではなく、人から話を聞かせてもらおうと思いついた彼。働かなくても生活できることを背景に、語り女たちを広告で募集する。17人の女性たちが、語りに語る。ひとつの話ごとに、美しい絵が添えられている。気に入ったのは「水虎」。『読むことの力』を3分の1ほど。講座をまとめたもので、理解しやすい言葉で語られている。詩歌から、謡、装幀から、翻訳などなど幅広い読むことが網羅されていて、どの講座もひきこまれる。松岡正剛氏の千夜千冊もあと14冊。6月8日(火)からは「おもかげの国うつろいの国」というNHK人間講座がスタートする。聞きたいな。聞けるかな。テキストを昨日購入。読むだけでもおもしろい。
昨日の朝食はクラッカーをどさどさ大きな器にいれて、外で食べる。あんずジャム、マーマレードジャム、チェリージャム。私は前の晩につくった残り物のミルクマッシュをつけてぱくぱく。ニンジンの浅漬けの残り物もぱくぱく。あとは牛乳、オレンジジュース、大人は珈琲。昼はラーメン。つれあいがもみだれをつけておいしい焼き豚のような肉とにらを炒めて醤油味のラーメンをこさえてくれた。美味。夜はつれあいが、塩と胡椒の味だけのシンプルなスパゲティがいいというので、オリーブオイルでにんにくを炒め、バジルとオレガノのスパゲティを。大人はタバスコをかけてピリリと食べる。んまーいとつれあいから誉めてもらう。へへへ。今朝は、ひさしぶりに江島雅歌さんのレシピでマーマレードのおから入りケーキをつくる。外で牛乳と共に。甘くておいしいねと子どもたちに好評。大人は珈琲で。お昼はつれあいが、冷やしうどんを。しょうがをたくさんすって、あとはわかめ。ねぎ。つるつる美味。夜はひじきのすし飯、きゅうりのしょうがと梅漬け。じゃがいもといんげんのおみそ汁。ここのところ、週末は天気がいいので、近くの公園で水浴びしたり(子ども)、畑(借りている)の水やりしたり。今週は子ども関連の保護者会議が2つ。
すきなマンガの最終巻はさみしい。とっても好きだった『SWEETデリバリー』の最後の巻がでてしまった。デコラちゃんはめでたしだし、初夏ちゃんもめんこく成長。マコトくんも無事、倦怠期を卒業。まやさんも別の道+いまの道でいい具合。私の好きなのはデコラちゃん。修くんとめでたしになったような、でもまだまだ道は険しいような。いつでもこのマンガを読むとピンクの幸福になる。
つれあいにも、詩とユーモアを読んでもらったら、このユーモア論とつながるならこれだろうとヘッセの詩を差し出してきた。ディキンスンの詩にはユーモアはないよと彼は言う。
小さい少年しかられたけれど、
ぼくはだまりこくっている。
泣きながら眠ってしまうが、
目をさますと、元気になっている。しかられたけれど、ちびと言われるけれど、
ぼくはもう泣きはしない。
笑いながら眠ってやる。おとなは死んで行く。
おじさんも、おじいさんも。
だが、ぼくは、ぼくは
いつも、いつも、ここにいる。
(高橋健二訳 白鳳社 ヘッセ詩集より)
世の中には、詩が分かるひとと分からないひとがいるおいう言い方があるけれど、いったいそれは本当なのだろうか。というくだりではじまり、「詩」を「ユーモア」という言葉におきかえてみてはどうだろうと。フロイトのユーモア論をひきながら、このユーモア論とまっすぐつながっているように見えると、エミリー・ディキンスンの詩を紹介している。
わたしは思う この世ははかなく
苦悩がさけがたく
痛手に満ちていると
だがそんなことが何だろうわたしは思う わたしたちはやがて死に
どんなに若々しい生命も
やはり死にはかてないと
だがそんなことが何だろうわたしは思う 天国では
とにかくすべてが公平にされ
何らかの新しい配分にあずかると
だがそんなことが何だろう
(新倉俊一訳)
午前中にひとだんらくついた事があり、読みかけだった『ニシノユキヒコの恋と冒険』を読了。『センセイの鞄』よりこちらの方がなじんだ。日常よりちょっと上等な空気と、下品にならない程度の粗野がいい具合にミックスされていた。よくある一人の人物を多面的にみている連作短篇集なのだけれど、その順番がよい。死後だったり、10代だったり、次は50代だったり、また若くなったりと。『13歳のハローワーク』をぱらぱら読む。作家の欄には、13歳に作家になりたいと問われたら「人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので~」と答えるとあった。おもしろいのは、随所にはさまれた村上氏によるエッセイ。どれもぐぐっと「仕事」について考えさせられる。仕事といえば、ターケルの『仕事!』がまっさきに浮かぶ。名古屋に住んでいたころ、その時していた仕事はもう続けられないと思いこんで、転職雑誌を買いに書店へ行き、ターケルの『仕事!』を手にして、結局転職はしなかった。『死について!』がでた時は、まさかターケルの新刊がでるとはとびっくりし、非常にうれしかった。子どもたちに絵本『龍』『うさぎのおうち』『ボクのこときらい?』を読んだ。学校の図書室でみた図鑑でカエルがネズミを食べているのをみたとびっくりしていた息子は『ボクのこときらい?』を何度かくりかえし眺めていた。小島政二郎の『食いしん坊交友録』『食いしん坊 第2』を少しだけ読む。日本語がきっちり、食べ物をキーワードにするすると様々な話題に飛ぶ。交友録の最初に抹茶の事が書いてあった。京都のお寺で働いていた時、お抹茶を多い時、一日数百たてていたことがある。もちろん作法はならったことがない。お寺で覚えたのだ。こんなに簡単にいれられるのだと、それ以来、自分でも自分にいれるようになった。最近はたてていないない。『ブラフマンの埋葬』読了。『博士の愛した数式』の方がやっぱりいいと比較されてしまうのは、時期的にしかたないか。Mo Willemsのハト絵本第2弾を読む。今回のお題はホット・ドッグ。このセンスは非常に好みだ。ぼちぼち『邂逅の森』を読みたい。『あおいうま』と『オレンジいろのめうし』の絵本がとどく。明日のお楽しみ。
気になっていた雑誌「harappa 03」を購入。サイトをみては、どうしようかなと思いつつ、地元の書店には置いていないので、ぱらっと見てから買うことはできない。思い立ったのだからと注文して週末とどいた。おもしろかった。はじめて読んだのだが、沢マンは、その存在だけで物語になっている。「他人と暮らす」という特集は興味をひいたのが購入の動機にもなった。私はひとり暮らしというのをほとんどしていない。カナダのジャスパーで数ヶ月暮らしたくらいで、あとは友人とシェアしたり、京都でも名古屋でも同居人がいた。京都では、一度だけ引越も経験し、玄関ひとつで、お風呂なし、3畳と4畳の部屋に住んでいた。持ち金が少なかったので、雪平鍋ひとつでお湯をわかし、料理をしていたことなど、記事を読んでフラッシュバックした。知り合いがゴミ捨て場から続々と生活必需品を拾ってきてくれたので、あっというまにモノには不自由しなかった。隣の隣の家族とは友人だったので、夕食の匂いがしてくると、つつつとお邪魔したりもした。隣の耳の遠いおばあさんは「あんたは若いんだから、早くお金ためてこんなところから出て行きなさい」と忠告(?)してくれた。で、話は沢マンにもどる。読みながら、ゴキブリはいいとしてもムカデがたくさんでる部屋にいま住めるかなと自問自答。名古屋の家はよくムカデがでて、寝ていて天井からぽとんと落ちてきては、お風呂場で燃やしたものだけど、できればそういう忙しい生活じゃないほうがいいなあとも思う。ムカデの毒で足がぱんぱんにはれあがったりしたことも一度や二度ではない。痛かった。でも、子どもがいるうちは、わさわさとした人の中で暮らすのもいいかもと非現実的な妄想にすこしだけひたった。
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