その名にちなんで
ジャンパ・ラヒリの『その名にちなんで』を読了。アショケは電車に乗って祖母の家に向かうところだった。祖父が失明し、アショケが蔵書を譲られることになったので、それを受け取りに行くのだ。スーツケースは2つ。一つは衣類やおみやげが満たし、もう一つは本をいれるために空っぽだ。「ロシアの作家を読みつくす。それから読み返す」と祖父は言い、アショケは一番ほしい本が祖父の失明によって得られることに悲しさを感じている。旅の道連れにはゴーゴリの『外套』。その本がアショケの運命をちょっと横に向け、結果的にカルカッタを離れアメリカに行くことを決意させた。アシマと結婚し、アメリカに渡り、そして息子をさずかる。祖母から名前が贈られるのを待っていたがなかなか届かない。アメリカでは出生証明書がないと赤ん坊が病院から退院できない。2人はとりあえずの名前として「ゴーゴリ」とつけた……。冒頭の出産シーンは、私も最初のお産を思い出した。
今度は熱病に見舞われたように、ぶるぶると震えがくる。三十分ほども震えが止まらず、ぼうっとして、毛布にくるまって、体の内側はすぽんと抜けたようだが、外の輪郭まで修正されたわけではない。そうなのだ。最初の子どもは病院出産で、生まれたあとは2時間ばかりひとりで分娩室におかれた。いままであった暖かい命はどこかの部屋に行ってしまい、ひとりでがたがたと震えていたことを。発熱しているわけではなかったが、早く2時間がたちこの分娩室から人のいる部屋に行きたいと願った。アシマは望んでインドを離れたわけではない。結婚した相手がアメリカに行くのでついてきたのだ。アショケにとっては意識したアメリカ滞在だが、アシマは違う。それでも家族になることを選んだのだから、違う違うでは生活がなりたたない。アショケとて、自分で望んで国を出たけれど、慣習は忘れず夫婦ともにカルカッタに帰ることは大事なことだ。生まれ育ったところでずっと暮らしていけるほうが幸せとかそうでないとかではない。つながっている元の場所は、離れれば離れるほど不思議な位置づけになっていく。そこにいることの心地よさと、いないことの心地よさは同じものではない。そんなこんなの、物語のひだに共感しながら読み終えた。
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