西鶴の感情
読了。おもしろかった。富岡氏が西鶴の書いた浮世草子を小説家として読み取っていく。西鶴はその私生活を書いたものがほとんどないらしく、妻を亡くし法体となるも、僧そのものにはならずおよそ10年後に『好色一代男』を書き上げる。俳諧師として、23500句独吟という途方もないことをし、自慢も公言した。西鶴の書いた浮世草子の中でもとてつもない数字が淡々と書かれていることを富岡氏は列挙する。『好色一代男』の主人公が60歳までにたわむれた女性は3742人、男は725人、最後に渡る島へ積んだ荷物もまた想像もつかないものと数ばかり。いやはや、好色を書くとはこういうことか。
10章ある本書では、3章の「水は水で果つる身」にもっとも惹かれた。『大阪堺筋 椀久一世の物語』について書かれているが、この椀久による「派手というよりセツナ的な金の使い方」は圧巻だ。1日の花見でいまのお金にして756万円をぽんと使い果たす。そのはてに、椀久の得たものは、ひと節一文で歌う「投げ節」であり、最期は水で果つる。富岡氏はこう書く。
ハレとケ、或いは非日常と日常、或いはまた慰安と労働、とぎれ目のない毎日のなかでそれらの配分をとりちがえると、たいていは破滅への段取りがつく。
富岡氏の文体も硬いばかりでなく、カタカナ表記も用いながらテンポよくひっぱる。さまざまに作品をよみとき、当時の様子も調べ上げ、西鶴に近づいていく。「ウソでつくられたものへの憧憬」や「遊びの能力」――、複雑な西鶴がほんの少し理解できるような気がするのは、少々おこがましいだろうか。
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