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野々宮さん
ご紹介ありがとうございます。『北園町九十三番地』は、ネット書店では入手しづらいようでしたので、地べたの三月書房さんにお願いしました。もう何年も前に京都に住んでいたことがあり(仕事で)、その時には通えたのですが、それでもこうして通販で買えるのですから、地方在住にとってはうれしいことです。三月さんのブログもおもしろいですよね。他にご紹介いただいた本も、読んでみようと思います。本を紹介してもらえるのは、とてもとてもうれしいことです。
投稿: さかな | 2006.12.20 16:57
さかなさん、こんちには。 山田稔さんの本で、わたしが一番好きなのは『北園町九十三番地』(編集工房ノア)です。ただし、これは詩人の故天野忠さんとの交流をつづったもので、物語とエッセイのはざまのような短篇とは異なります。編集工房ノアのPR誌「海鳴り」というのが、年に1度くらい不規則に出るのですが、そこに寄せていた文章を読むところから山田さんとのおつきあいが始まりました。その次のおすすめは、みすず書房から出ている『コーマルタン界隈』でしょうか。ご本人の翻訳ではないけれど、この方が編まれたチェーホフの短篇選集(みすず大人の本棚)も、おすすめです。
投稿: 野々宮 | 2006.12.20 10:49
こちらこそ、いつも丁寧なお返事うれしく読ませていただいています。「ミケルの庭」の拙文も読んでくださっているのですね。ありがとうございます。
雑誌「群像」で、松浦弥太郎さんが、師匠と仰がれた方から何度も「エッセイと随筆の違い」について質問され答えようとするところが、数回でてきていました。図書館で読み、師匠の方の答えが明確だったけれど、それは何だったろうと、いま思い出せなくて少しがっかりしています。
エッセイは、そうですね、もちろん独立したものだと思うのです。たいていのエッセイはそこに話の芽をそれほど感じず、梨木さんのものは、どうしても作品とのつながりを深く感じ取ってしまうのです。おそらく、物語にご自身が色濃くこめられているせいかもしれません。エッセイと物語の距離が近いのかも。
須賀敦子さんも、いつかエッセイから物語を書かれていたのではないかと思うのですが、須賀さんのエッセイもひとつの物語になっていると私も感じます。名前をあげていただいた堀江敏幸さんも確かに。山田稔さんでおすすめのエッセイがあれば教えていただけますか。ノア工房から出ているものに惹かれつつ、グルニエの翻訳者として名前を覚えた方です。そういえば、梨木さんも共訳で一冊だけ訳書があるんですよね。
投稿: さかな | 2006.12.19 19:36
さかなさん、丁寧なお返事ありがとうございました。再読を味わうよすがにします。 『沼地のある森を抜けて』は、刊行後間もなく図書館で借りました。あれからしばらく経つので、ぜひ再読したいと願っています。あの時はわたしの機が熟していなかったかも知れないので。 さかなさんの「ミケルの庭」についての文章は、梨木さんの作品に匹敵するくらい張りつめたものがあって引き込まれました。
考えてみると、わたしはいつもエッセイを独立したものとして読んでいて、物語のヒントをエッセイの中に読みとったことや、読みとろうとしたことは、ほとんどありませんでした。おのずと「ああ、そうか」と肯いたのは、異民族どうしの関わり、また隔たりへの梨木さんの関心についてくらいでしょうか。そうか、わたしは「物語第一の読者」ではないのかもと、今気がついたところです。いや、もしかしたら、エッセイそのものを一つの独立した物語、あるいは物語の断片として読んでいることはあるかも知れませんが。須賀敦子さんや堀江敏幸さん、山田稔さんの文章などは、そのようにして読んできたような気がします。
投稿: 野々宮 | 2006.12.19 00:39
私も梨木さんのこの新刊は読みます。なんといっても、ミケルの庭も収録されているようですから。
『家守奇譚』がでた時は、あちこちで話題になり、初版がすぐに出てしまい、重版をまたなくてはいけないほどでした。それで、先に『村田エフェンディ滞土録』を読み、これがすごくよくて、ここにでてくる人が『家守奇譚』にも登場するということで、ようやくそちらに戻ったのでした。私も植物は好きですが、名前など詳しいことは何も知らないので、季節とのずれは感じず読みました。ですが、『村田~』にゆかりのある描写を読みたかったので、いま読むとまた違う感想をもつかもしれません。ちょうど雑誌「ヨムヨム」で「家守奇譚」の続編というか、別の植物について書かれていたので、再読してみたいと思っているところです。季節の流れと微妙に違うということ、土地によっても植物の咲く時期が多少ずれますが、それよりもっと幅が広くずれているのでしょうか。
『沼地のある森をぬけて』は、雑誌「考える人」で梨木さんがエッセイを書かれていて(単行本『ぐるりのこと』にまとめられました)、そこで、酵母菌にとても興味をもたれたことについてふれていましたね。ここから『沼地の~』がつくられていったのだなと感じました。梨木さんは書かれたことのつながりがとても見えるようにされますね。意識されてそうされているのかはわかりませんけれど。個人的な好みとしては、作品として読みたいと思っています。『からくりからくさ』も『春になったら苺を摘みに』からつながっている。作品が形作らない生の時が書かれていて、私はちょっとエッセイが苦手かもしれません。でも梨木さんにとって、書かれたかったことなのだろうと思いました。『からくりからくさ』は『春に~』の流れでも、作品として醸成されていますが、『沼地~』は「ぐるりのこと」で書かれた興味からまだ生々しさがとれていないように思えました。ラストのもりあがりは、梨木節でさすがと思いましたが、それでも、途中はまだ醸成されきっていないような、いつも求めてしまうコクにたどりついていないように感じたのです。
「コヨーテ」の『こわれた満腹』!!! ここまですごいと笑うしかない、です。漢字の雰囲気が似ている? いや似てない。。自戒をこめて気をつけなくては。
投稿: さかな | 2006.12.18 10:18
こんばんは。梨木さんの新刊、やはり気になります。きっと読みます。 『家守綺譚』は目次を見たとたん、とびつくように買いました。園芸はまったくしませんが、野の草木の中にいるのがとても好きなので。ただ、植物の配列が季節の流れとは微妙に違うことが、ずっと気にかかって、きっと作者は敢えてそうしているのだと思いながら、魚の小骨のように違和感が刺さっています。『沼地のある森をぬけて』は、導入部分にはとても惹かれたのに、途中から消化不良になりました。さかなさんは、全作、抵抗なく読まれたのか、お聞きしたいと思っていました。
雑誌は「コヨーテ」のバックナンバー、「星野道夫が読んだ本」の特集号を買い求めました。とても充実した内容ですが、惜しむらくは誤植が多い。星野さんの愛読書には「ゲド戦記」が含まれているのですが、2冊目のタイトルが『こわれた満腹』(!)になっているのです。目が点になりました。わたし自身ほぞをかむような誤謬・誤植は何度もやらかしていますが、これには、次の瞬間おもわず笑ってしまいました。
投稿: 野々宮 | 2006.12.18 00:21
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野々宮さん
ご紹介ありがとうございます。『北園町九十三番地』は、ネット書店では入手しづらいようでしたので、地べたの三月書房さんにお願いしました。もう何年も前に京都に住んでいたことがあり(仕事で)、その時には通えたのですが、それでもこうして通販で買えるのですから、地方在住にとってはうれしいことです。三月さんのブログもおもしろいですよね。他にご紹介いただいた本も、読んでみようと思います。本を紹介してもらえるのは、とてもとてもうれしいことです。
投稿: さかな | 2006.12.20 16:57
さかなさん、こんちには。
山田稔さんの本で、わたしが一番好きなのは『北園町九十三番地』(編集工房ノア)です。ただし、これは詩人の故天野忠さんとの交流をつづったもので、物語とエッセイのはざまのような短篇とは異なります。編集工房ノアのPR誌「海鳴り」というのが、年に1度くらい不規則に出るのですが、そこに寄せていた文章を読むところから山田さんとのおつきあいが始まりました。その次のおすすめは、みすず書房から出ている『コーマルタン界隈』でしょうか。ご本人の翻訳ではないけれど、この方が編まれたチェーホフの短篇選集(みすず大人の本棚)も、おすすめです。
投稿: 野々宮 | 2006.12.20 10:49
野々宮さん
こちらこそ、いつも丁寧なお返事うれしく読ませていただいています。「ミケルの庭」の拙文も読んでくださっているのですね。ありがとうございます。
雑誌「群像」で、松浦弥太郎さんが、師匠と仰がれた方から何度も「エッセイと随筆の違い」について質問され答えようとするところが、数回でてきていました。図書館で読み、師匠の方の答えが明確だったけれど、それは何だったろうと、いま思い出せなくて少しがっかりしています。
エッセイは、そうですね、もちろん独立したものだと思うのです。たいていのエッセイはそこに話の芽をそれほど感じず、梨木さんのものは、どうしても作品とのつながりを深く感じ取ってしまうのです。おそらく、物語にご自身が色濃くこめられているせいかもしれません。エッセイと物語の距離が近いのかも。
須賀敦子さんも、いつかエッセイから物語を書かれていたのではないかと思うのですが、須賀さんのエッセイもひとつの物語になっていると私も感じます。名前をあげていただいた堀江敏幸さんも確かに。山田稔さんでおすすめのエッセイがあれば教えていただけますか。ノア工房から出ているものに惹かれつつ、グルニエの翻訳者として名前を覚えた方です。そういえば、梨木さんも共訳で一冊だけ訳書があるんですよね。
投稿: さかな | 2006.12.19 19:36
さかなさん、丁寧なお返事ありがとうございました。再読を味わうよすがにします。
『沼地のある森を抜けて』は、刊行後間もなく図書館で借りました。あれからしばらく経つので、ぜひ再読したいと願っています。あの時はわたしの機が熟していなかったかも知れないので。
さかなさんの「ミケルの庭」についての文章は、梨木さんの作品に匹敵するくらい張りつめたものがあって引き込まれました。
考えてみると、わたしはいつもエッセイを独立したものとして読んでいて、物語のヒントをエッセイの中に読みとったことや、読みとろうとしたことは、ほとんどありませんでした。おのずと「ああ、そうか」と肯いたのは、異民族どうしの関わり、また隔たりへの梨木さんの関心についてくらいでしょうか。そうか、わたしは「物語第一の読者」ではないのかもと、今気がついたところです。いや、もしかしたら、エッセイそのものを一つの独立した物語、あるいは物語の断片として読んでいることはあるかも知れませんが。須賀敦子さんや堀江敏幸さん、山田稔さんの文章などは、そのようにして読んできたような気がします。
投稿: 野々宮 | 2006.12.19 00:39
私も梨木さんのこの新刊は読みます。なんといっても、ミケルの庭も収録されているようですから。
『家守奇譚』がでた時は、あちこちで話題になり、初版がすぐに出てしまい、重版をまたなくてはいけないほどでした。それで、先に『村田エフェンディ滞土録』を読み、これがすごくよくて、ここにでてくる人が『家守奇譚』にも登場するということで、ようやくそちらに戻ったのでした。私も植物は好きですが、名前など詳しいことは何も知らないので、季節とのずれは感じず読みました。ですが、『村田~』にゆかりのある描写を読みたかったので、いま読むとまた違う感想をもつかもしれません。ちょうど雑誌「ヨムヨム」で「家守奇譚」の続編というか、別の植物について書かれていたので、再読してみたいと思っているところです。季節の流れと微妙に違うということ、土地によっても植物の咲く時期が多少ずれますが、それよりもっと幅が広くずれているのでしょうか。
『沼地のある森をぬけて』は、雑誌「考える人」で梨木さんがエッセイを書かれていて(単行本『ぐるりのこと』にまとめられました)、そこで、酵母菌にとても興味をもたれたことについてふれていましたね。ここから『沼地の~』がつくられていったのだなと感じました。梨木さんは書かれたことのつながりがとても見えるようにされますね。意識されてそうされているのかはわかりませんけれど。個人的な好みとしては、作品として読みたいと思っています。『からくりからくさ』も『春になったら苺を摘みに』からつながっている。作品が形作らない生の時が書かれていて、私はちょっとエッセイが苦手かもしれません。でも梨木さんにとって、書かれたかったことなのだろうと思いました。『からくりからくさ』は『春に~』の流れでも、作品として醸成されていますが、『沼地~』は「ぐるりのこと」で書かれた興味からまだ生々しさがとれていないように思えました。ラストのもりあがりは、梨木節でさすがと思いましたが、それでも、途中はまだ醸成されきっていないような、いつも求めてしまうコクにたどりついていないように感じたのです。
「コヨーテ」の『こわれた満腹』!!! ここまですごいと笑うしかない、です。漢字の雰囲気が似ている? いや似てない。。自戒をこめて気をつけなくては。
投稿: さかな | 2006.12.18 10:18
こんばんは。梨木さんの新刊、やはり気になります。きっと読みます。
『家守綺譚』は目次を見たとたん、とびつくように買いました。園芸はまったくしませんが、野の草木の中にいるのがとても好きなので。ただ、植物の配列が季節の流れとは微妙に違うことが、ずっと気にかかって、きっと作者は敢えてそうしているのだと思いながら、魚の小骨のように違和感が刺さっています。『沼地のある森をぬけて』は、導入部分にはとても惹かれたのに、途中から消化不良になりました。さかなさんは、全作、抵抗なく読まれたのか、お聞きしたいと思っていました。
雑誌は「コヨーテ」のバックナンバー、「星野道夫が読んだ本」の特集号を買い求めました。とても充実した内容ですが、惜しむらくは誤植が多い。星野さんの愛読書には「ゲド戦記」が含まれているのですが、2冊目のタイトルが『こわれた満腹』(!)になっているのです。目が点になりました。わたし自身ほぞをかむような誤謬・誤植は何度もやらかしていますが、これには、次の瞬間おもわず笑ってしまいました。
投稿: 野々宮 | 2006.12.18 00:21