沈黙
グレゴリー・コルベールの魅力 (4)
ashes and snow の小説で、夫は妻に自分自身の生まれた時のことを語り、眠った時にみた夢のことを語り、ゾウやクジラの話をする。
夢のなかではアステカの王、モンテスマがよく登場する。王は夢のなかで彼と川歩きを共にし、物語を聞かせる。
四番目の手紙 ――
「飛ぶ鳥の羽は空中になんの痕跡も残しはしない。飛ぶ鳥のごとく姿を消すがいい」
「一年のあいだ沈黙のなかで振り返り、過去が語るのを聞くのだ。鳥のルートとはそうしたもの、常に沈黙ではじまる」
十番目の手紙 ――
横になって眠っていると、夢のなかでモンテスマが、ぼくといっしょにタンガニーカ川の岸辺を歩いていた。「夢のなかでの川歩きは、眠りのなかに落ちてくる果実だ」と王は言った。「毎朝拾い集めて、ながめて、磨いて、においをかいで、皮をむいて、切り分けて、味わって、それから自分の感じたものを蒸留して言葉にするのだ」
夢で川歩きの日々を過ごしながら、起きている時の旅は続く。手紙は過去に戻り、夢に入り、いまを過ぎていく。ここではないどこか――、時間の境界をゆるやかに越えながらの旅。
展示されている写真には、どれもタイトルも説明もされていない。グレゴリーが、ただ作品と向き合い、対話してもらいたいと、制約を与えないようにしているからだ。それでも、小説を読んでいくと、読み手がそれぞれに受け取ったもので、また違う対話ができそうな気がしてくる。
この展覧会はとても大きな幅がある。写真をみた時に受けるもの、映像(動画)から受けるもの、そして小説から感じたこと。小説のあらすじといえば、夫が妻にあてた手紙というシンプルなひとことだけになってしまう。夢が語られ、子どもの頃からもちつづけているゾウやクジラへの気持ち、それらをあらすじのなかにおさめることはむつかしい。
それに、読むという行為はひとりでいることを要求する。ページを繰るのは読み手ひとり。これは写真や映像を美術館で複数の人に囲まれつつ、ひとりでそれらから受け取るのとはまた違う感情がうまれる。
グレゴリーは小説の中でたびたび、言葉の不自由さを言葉で綴っている。
八十番目の手紙 ――
カメラが曇りのない鏡になってくれることがある。カメラがあれば、光を集めて、書きあらわせないものをきみに見せることができる。カメラがあれば、ぼくは言葉から自由になれる。
八十六番目の手紙 ――
ぼくの思い描く楽園には言葉はない。
映像は、言葉とちがって、沈黙をやぶらずに沈黙について語ることができる。
(続く)
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