

グローバリズム出づる処の殺人者より
アラヴィンド・アディガ著/鈴木 恵訳/文藝春秋
税込¥1,890/2009.02/ISBN 978-4-16-327560-4
★2008年度ブッカー賞受賞作
「わたし」にはいくつか名前がある。両親ふたりとも、病気や仕事で忙しく名前をつける暇もなかったため、最初はただ「ムンナ」。意味はただ“男の子”というもので、名前ともいえないものだった。そこで学校の先生が「バルラム」とつけてくれた。次の名前は、その学校に視察に来た、視学官がつけてくれた――「白い虎」と。
この小説の原題は"White Tiger"。「わたし」がムンナから、バルラム、そしてホワイト・タイガーになっていくのは、“闇”の世界から“光”の世界へ進んでいくことだった。
インドで暮らす「わたし」は「ホワイト・タイガー」と名付けられたとたん、“闇”社会の禍いへつりこまれていく。学校に通えなくなり、毎日働く生活へ。茶店で働き、石炭を割る、テーブルを拭く、そんな単調な生活を宿命とあきらめず、「わたし」は「バルラム」になっていく。機を見るに敏な少年は茶店から運転手へ転職する。そして、転職先の主人、アショクに運命の転機を得る。
中国の首相がインドを訪れることを知った「わたし」が、「ホワイト・タイガー拝」としてしたためる手紙形式で進行していく。ホワイト・タイガーは、自分がいかに起業家としてのしあがってきたか、格差社会の強烈なインドを背景に、生々しい言葉で語る。これは、ピカレスク小説なのだ。
むかしのインドには一千のカーストと運命がありましたが、いまはふたつしかないのです。でかい腹をした人間と、ちっぽけな腹をした人間しか。
だから運命もふたつしかないわけです。食うか、食われるかしか。
「わたし」はちっぽけな腹をした人間だった。それでも、茶店から運転手への格上げで、使用人という立場を得ることができた。食べ物は充分にあり、床で寝るにせよ、屋根のある部屋で過ごすことができるようになる。「バルラム」とよばれ、主人を親と思って仕え、給料は自分の最低限の飲み食い以外は実家に送る毎日だ。また単調に日は過ぎる。しかし、その日々の隙間で見つけた機を、必ずとらえ、次のステップを踏んでいくのが「わたし」だ。身も心もきれいでいたら、次はない。その次のその次は、目の前の主人だ。
格差という熟語ではおさまりきれないほどの強い差別社会の描写の合間は、黒々としたユーモアでうめられていて、笑っていいのかどうなのかと少し躊躇してしまう。けれど、そのユーモアこそ、気持ちがほぐれ読み進める原動力となる。読んでいるうちに、そのおもしろさに、ぐんぐんまきこまれていく。右手がいそがしくて使えない時、左手は何をしているか。運転手として前を見て運転する以外に、ルームミラーから見える小さな世界から何を得られのか、何を共有できるのか。大きなストーリーと共に、それらの小さいストーリーこそが密度濃くつまっていて、解説にも書かれているように“ページターナー”な小説になっている。つまり、とってもおもしろい小説なのだ。
タイトルからしてルポルタージュ風小説かと勘違いしそうなのだが、決してそうではない。
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