Ashes and Snow

2007.03.18

ashes and snow

グレゴリー・コルベールの魅力(5・了)


 写真集や小説はイタリアで印刷、製本されている。本を覆うカバーは天然蜜蝋を引いたネパール製の手漉き紙が使用され、ハイビスカスの葉で染めた紐で結わえられている。読むときはまず紐をほどいて、写真や言葉と出合う。

 小説が刊行されたのは2004年。その後、何度か改稿され、英語版は第3版がショップに置かれている。日本語版はこの3版からさらに改稿されたものが底本となった。

 旅を重ね、動物と向き合い、グレゴリーは人間の目を通した世界だけではなく、「クジラやゾウ、マナティ、ミーアキャット、チーターたちの目を通して世界を見たいのです」と語っている。出合った多くの動物――ゾウ、クジラ、マナティ、アフリカクロトキ、オオヅル、イヌワシ、シロハヤブサ、ツノサイチョウ、チーター、ヒョウ、アフリカン・ワイルド・ドッグ、カラカル、ヒヒ、オオカモシカ、ミーアキャット、テナガザル、オランウータン、イリエワニなどが悠々と写真や映像(動画)、そして小説の中で生きている。
 おそらく私たちが暮らしている世界は、思っている以上にうつくしい。


二百二十二番目の手紙 ――

 ぼくたちにはみんなそれぞれ、自分に似た動物がいる、動物の顔がある。ワシの顔を持っている人もいれば、ヘビの人も、マナティの人もいる。

八十八番目の手紙 ――

 自然には、多様な眼差しがある。詩人や魔法使いは人間だけじゃない。ゾウの琥珀色の目をのぞきこむと、自分がかつて知っていたことをゾウは知っているんじゃないかという気がしそうだ。ゾウは、忘れたと思っていたことを思い出させてくれる。


 362番目の手紙は眠っているときに、王があらわれる夢が綴られている。王はフェニックスの話を語り、この世ですごす短い時の中で、自分の歌を歌うことができたものの名前をあげていく。


世に知られていようがいまいが、人間だろうがゾウだろうが、フェニックスはすべておなじダンスを踊る……。

羽は火に
火は血に
血は骨に
骨は髄に
髄は灰に
灰は雪に



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2007.03.17

沈黙

グレゴリー・コルベールの魅力 (4)

 ashes and snow の小説で、夫は妻に自分自身の生まれた時のことを語り、眠った時にみた夢のことを語り、ゾウやクジラの話をする。
 夢のなかではアステカの王、モンテスマがよく登場する。王は夢のなかで彼と川歩きを共にし、物語を聞かせる。

四番目の手紙 ――

「飛ぶ鳥の羽は空中になんの痕跡も残しはしない。飛ぶ鳥のごとく姿を消すがいい」

「一年のあいだ沈黙のなかで振り返り、過去が語るのを聞くのだ。鳥のルートとはそうしたもの、常に沈黙ではじまる」


十番目の手紙 ――

横になって眠っていると、夢のなかでモンテスマが、ぼくといっしょにタンガニーカ川の岸辺を歩いていた。「夢のなかでの川歩きは、眠りのなかに落ちてくる果実だ」と王は言った。「毎朝拾い集めて、ながめて、磨いて、においをかいで、皮をむいて、切り分けて、味わって、それから自分の感じたものを蒸留して言葉にするのだ」


 夢で川歩きの日々を過ごしながら、起きている時の旅は続く。手紙は過去に戻り、夢に入り、いまを過ぎていく。ここではないどこか――、時間の境界をゆるやかに越えながらの旅。

 展示されている写真には、どれもタイトルも説明もされていない。グレゴリーが、ただ作品と向き合い、対話してもらいたいと、制約を与えないようにしているからだ。それでも、小説を読んでいくと、読み手がそれぞれに受け取ったもので、また違う対話ができそうな気がしてくる。
 この展覧会はとても大きな幅がある。写真をみた時に受けるもの、映像(動画)から受けるもの、そして小説から感じたこと。小説のあらすじといえば、夫が妻にあてた手紙というシンプルなひとことだけになってしまう。夢が語られ、子どもの頃からもちつづけているゾウやクジラへの気持ち、それらをあらすじのなかにおさめることはむつかしい。
 それに、読むという行為はひとりでいることを要求する。ページを繰るのは読み手ひとり。これは写真や映像を美術館で複数の人に囲まれつつ、ひとりでそれらから受け取るのとはまた違う感情がうまれる。

 グレゴリーは小説の中でたびたび、言葉の不自由さを言葉で綴っている。

八十番目の手紙 ――

 カメラが曇りのない鏡になってくれることがある。カメラがあれば、光を集めて、書きあらわせないものをきみに見せることができる。カメラがあれば、ぼくは言葉から自由になれる。



八十六番目の手紙 ――

 ぼくの思い描く楽園には言葉はない。

 映像は、言葉とちがって、沈黙をやぶらずに沈黙について語ることができる。


続く

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2007.03.16

窓が開く

グレゴリー・コルベールの魅力(3)


 Ashes and Snow へ行かれた方は体感されていると思うが、美術館内は外気とかなり近い空気になっている。寒い時は寒いまま、これからの季節だと暑い時は暑く。それがグレゴリーの意向だというのは、作品世界により近づき、息づかいを感じてほしいからなのだろう。美術館という場所に置かれた時に感じる人工的な静けさとは無縁なそこでは、風が強い時はその音までも聞こえ、建物がふるえるのを感じる。私が訪れた時も、風の強い寒い日だった。12メートルもある、スリランカ製のティーバッグ100万個で作られた透けて見えるカーテンが風にぱたぱたとゆらめいていた。

 美術館に入ると、薄暗い照明の中、床は木の厚板で作られ、紙筒で作られた柱が美しくそびえ立ち、木の廊下の両側には、石が敷き詰められている。和紙に焼き付けられた写真は、細いワイヤーで吊され、照明があたった和紙までも独特のシルエットを残す。入ってまず、両側にある写真をみていき、つきあたりに映像を座ってみられる領域にうつっていく。9分の haiku 俳句と題されたショートフィルム2本と、60分のフィルム。ショートフィルムの方は、ショップで売られているDVDにも収録されていない。

 映像をみていると、写真で観てきたシーンが、今度は動く画像として鑑賞できる。だが、グレゴリーは動画は動画、写真は写真で撮っており、どの写真も、動画からのものはない。なぜこんな但し書きのようなことをパンフレットにも、そしていまここでも書くかというと、グレゴリーの撮るものは、信じられないような組合せのものなのだ。会場に入ってすぐ目に入るのが、少年が座って本を読み、その横でまるで同じような空気を共有するかのように、ゾウも座っている。
 映像でも、ヒョウがするりと少年の横を歩いたり、走ったりしている。かするとケガなどしないかしらと、世俗的な心配をしてしまうくらい、目の前で動いている人間やヒョウ、ゾウと人間という組合せにびっくりしてしまう。それでもじっと見ていると、不思議に見えていたものが、自然な姿に見えてくる。映像にもでてくる小説の一部を引用する。

 

 七十二番目の手紙 ――

 ――心は何年も窓を開けたことのない古い家のようなものだ。だがいま、窓が開く音が聞こえる……、ヒマラヤ山脈のとけかけた雪の上を舞うツルの姿が頭によみがえる。マナティの尾の上で眠った思い出が。アゴヒゲアザラシの歌が。シマウマのいななきが。アマガエルの合唱が。サン族の舌打ち音が。カラカルの耳が。ゾウが体を揺する様子が。クジラが水面に躍りでるさまが。オオカモシカのシルエットが。ミーアキャットのくるっと丸まった指が。ガンジス川を漂ったときのことが。ナイル川での帆走が。ダマヤジカ・パゴダの階段をのぼったときのことが。ハトシェプスト女王葬祭殿の廊下をさまよったときのことが。たくさんの女たちの顔が。果てしない海、何千マイルもの川が。二人の子の父だったことを覚えている。妻のことを。誓いを。彼女の指に指輪をはめたことを。ヴェールをめくったことを。キスを。ワルツを。ウィッシュボーンをひっぱったことを。ウェディングケーキの味を。蜂蜜のボウルに浮いていたハスの花びらを。ザクロを切ったことを。モモの皮をむいたことを。


続く
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2007.03.15

七番目の手紙

グレゴリー・コルベールの魅力(2)

 

 Ashes and Snow 日本語にすると「灰と雪」。なぜ、ashes and snow なのか。それは映像に流れるナレーション、そして小説を読むとよくわかる。いっきに、灰と雪まではたどりつけないので、少しずつ近づいてみる。

 言葉がなくても写真や、映像のみ、そして音楽で充分つたわるものはある。しかし、グレゴリーの小説は、映像作家が手すさびに書いたものではない。ゆたかな才能は、文芸にまでおよんでいる。

 

 この世のはじめには、大空いっぱいに空飛ぶゾウがいた。重い体を翼で支えきれず、木のあいだから墜落しては、ほかの動物たちをあわてふためかせることもあった。
                              七番目の手紙より 

 小説は手紙で綴られた形をとっている。旅に出た夫が妻にあてた365通の手紙。中には、風で飛ばされてしまったなどの理由でいくつか抜けているものもある。

 最初の手紙は「ゾウのお姫さまへ」と妻によびかけてはじまっている。旅の様子を語りかけるようなものであったり、神話を語っているかのようなものもあったり、眠っているときに見た夢の話だったり。なかでも、七番目の手紙はとても詩的なもので、小説以外の Little book 形式の写真集にも引用されている。グレゴリーにとってゾウは特別な動物で、なんだろう――、親友といってもいいのだと思う。展覧会でもゾウの写真は多く、大きな和紙に焼き付けられたゾウの目は忘れがたい印象を残す。

 

 八十番目の手紙 ――

  ゾウの目は、もの言わぬ愛の舌だ。

 

「人間と動物の関係を内奥から探求する」

これはグレゴリーが「Ashes and Snow」に着手した1992年に目指したことだという。写真を見ると、動物と人間の境界はかぎりなく取り払われている。同じ視線、同じところに立ち、泳ぎ、ダンスする。

 

 八十八番目の手紙 ――

  どうか守護ゾウたちが、自然のオーケストラの演奏家たち皆とつながりを持ちたい、というぼくの願いを、聞き入れてくれますように。ぼくはチーターの目で見たい。ゾウの目で見たい。ステップのないダンスに加わりたい。

  ぼくはダンスそのものになりたい。


翻訳はアリス・マンロー(『イラクサ』、『林檎の木の下で』(近刊))などの翻訳で知られている小竹由美子。

続く
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2007.03.14

鳥のルート

グレゴリー・コルベールの魅力(1)

 

 東京は六本木の森アーツセンター、お台場のノマディック美術館で開催されている「Ashes and Snow」。ひょんなことから、少し関わるようになり、先日どちらも見てきました。すばらしかった。何度も写真集を眺め、小説を読み、映像を見たけれど、やはり生で見る「Ashes and Snow」のもたらすものに深く感動した。

 会場では写真の他に、映像も流れ、オリジナルの音楽も流れている。写真をおさめている美術館そのものも見応えがある。このすばらしさを少しでも伝えるべく、グレゴリー・コルベールの魅力というか紹介をしてみたくなった。

「Ashes and Snow」はなんの展覧会?と聞かれれば、写真、映像、そしてできれば小説も読んでもらえると、それらのみごとなまでのコラボレーションされたものだと答えられる。大判の和紙に印刷されたセピア色の写真、大画面でみる映像、そして、会場に流れる音楽、そのいずれもが「Ashes and Snow」のためのオリジナルだ。写真単独の展覧会では決してない。場も空気も音もすべてがひとつのつながりを見せている。ただそれは、写真だけ見ることに深みをもたらさないわけではない。ひとつひとつを単独に見ても力が弱まることは決してないのだけれど、映像や小説も知った上でみると、いちだんと理解でき、心の深いところに届くものがあると思うのだ。

 さて、この展覧会のはじまりは、イタリアの都市、ヴェネツィアからだった。

「Ashes and Snow」を語る上で欠かせない、ノマディック美術館はイタリアではまだお目見えしていない。日本人建築家、坂茂がグレゴリーより直接手紙をもらい、何年も試行錯誤したうえで、作品をおさめる建物ごと移動できるという画期的なものを生み出した。

 とはいえ、イタリアのアルセナーレと呼ばれる15世紀の造船所跡でのエキシビションは、写真を見る限り、ノマディック美術館の原形のように思える。重厚でいて開放的、何よりグレゴリーの撮ったものとの相性がぴったりに見える。

 ノマディック美術館が初めて披露されたのは、ニューヨークのハドソンリヴァーパーク、54番埠頭で開催されたもので、その後、カリフォルニア州サンタモニカに旅の拠点を移し、現在の開催地である東京がノマディック美術館としては3か所めにあたる。

 グレゴリー・コルベールは1960年、カナダのトロント生まれ。2007年だと47歳。1983年、23歳の時にパリで、社会問題のドキュメンタリー映画をつくりはじめた。映画から芸術写真へ。32歳、1992年に初の展覧会「Timewaves」を、スイスのエリゼ美術館と、日本のパルコギャラリーで開催した。そう、15年前に、グレゴリーは日本で初の展覧会を開いている。残念ながらパルコギャラリーでは当時のカタログがないようだが、だからこそ、お台場のレセプションでグレゴリーは今回の「Ashes and Snow」が自分にとって故郷に帰ってきたようなものだと話をした。

 グレゴリーの作品は日本にゆかりのあるものが多い。建築は日本人の坂茂であり、水中写真は中村宏治も参加している。そしてあの美しい写真が印刷されているのは日本の阿波和紙だ。


続く

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